木を扱っています。といっても漠然と、,,,

自分の写真
nagoya, aichi, Japan
1956年、名古屋産、工学系、我関せず、刳るものは拒まず去る者は追わず、淡々、

2008年12月31日水曜日

視覚、聴覚、と、イメージのこと

針金細工やに、似顔絵を作ってもらった。バックは黒い紙で、細い針金でくくりつけてある。一筆描きではない。人の顔を2値化する(モノクロにする)とこんなふうに輪郭が浮かぶのかな。

こういった物に至る道筋は2つあると思う。一つは実際に見えている像から、データを省いて簡略していく方法、投影したり、強調、省略など。もう一つは、見る人がどうのように認識するだろうかと言う観点から造り上げていく方法、作者の頭の中で造り上げる形状がある。この写真は、どうも後者のような気がする。つまり、目、鼻、口などの境界線を全体像から取り出していると言うより、個別に識別したものを並べている感じがする。ある輪郭を見るのと、それに目、口、花、頭、という具象をリンクするのは、頭の中で扱う部署が違うのだ。

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”日経サイエンス 別冊157 感覚と錯覚のミステリー 五感はなぜだまされる” という書籍には、視覚障害者でも絵を描くことを楽しんでいる、と言う事例が載っている。視覚情報はないけど、触覚情報、から取り込んだイメージは、視覚健常者と同じような領域で認識され画像処理されているとしている。つまり、私たちが昔の風景を思い出すように、視覚障害者でも触覚情報を画像として認識しているらしい。

記事では、ペンでなぞると線が浮き出てくる装置を使って、視覚障害者に絵を描かせていた。人の顔を手でなぞって輪郭を線画にしていた。”お絵かきはたのしい”そうだ。

早川ノンフィクション ”オリバーサックス~火星の人類学者” は、脳に障害を持った人たちの様子を書いた名著だ。そこで、生まれつき視覚や聴覚に障害がある人を、医学手法によって回復させた記事がある。しかし、成長してから始めてモノを見たり、聞いたりした人のほとんどは、追加されたノイズに耐えきれず、結局元に戻ることを望んだという。訓練無しに、いきなり視覚なり聴覚情報を処理することはかなわない。単にまぶしい光だったり耐えきれない騒音を感じるという。だれもが新しい刺激に絶望し、元の安息へ戻るという。健常者の見る像や声、音は、高度に処理されたプログラム出力の結果であると知らされる。それを生まれつき持っているという訳ではないのだ。

にわか健常者は、結局本来の障害者として平穏な日々を送っている。見えない、聞こえないというのは障害ではない。そういった仕様なのだ。脳の中では、それなりに捕らえられた信号を、生活する必要な情報として、うまく処理するシステムが育っているのだ。もちろん、事故によって突然そうなった人とはもちろん、意味が異なる。

世界の多くのモノは単独で機能し、変化するのでなく、それぞれの系(システム)の中でバランスを取りながら存在している。傾きや偏差は補正され、刻々変わりゆく環境に対して代謝をして変化している。

同じ物を見て捉える意味は全く異なっても、同じようにおもしろく、楽しんでもらえるかも知れない。針金細工はそう言った方々の趣味とならないかなあ、というお話しでした。

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